◎ ”ちょうそん” ・・・・・・開拓の記憶

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田代道々を新富方向にむかう、大きくカーブする地点を”大曲”と言う。左の水田地帯を”高尾谷地”、様似の穀倉地として早くから開けた中心地帯である。
右手の一帯は古くから”ちょうそん”と言われた地帯である。
それは5〜60年程前は村有地で一面の茅や小灌木の密生する平地であった。
そこえ開拓民として一戸分3町5反で3年間で畑にしなければならない約束で入植した、・・・・父に連れられて一家6人、小学一年生入学の春であった。
開墾道具といえば鋸・鎌・大きな根切り鍬ぐらいしかない、それ以上の種類
あってもしょうがないのである 。
灌木は・・・やちはんのき・真夏は白いはなの美しい・さびた・やちだも、地面には高さ50センチ程太さ30センチぐらいの・谷地坊主(スゲ?の根が地上に盛り上がったように生えた)、その他・湿地帯にはえる・すすき・よし・羊歯類・処どころにイタドリの群生・蚊やブユ・アブ・青大将(蛇)などは飽きるほど住んでいた、まさに野生生物の天国といったところだが人間にとっては
あまり良いところではなかった。飲み水は山の麓を流れる水田の潅漑溝からを利用した、これも大雨などの時よく氾濫もした、上水道が引けたのは昭和40年頃、入植後30年ぐらいあとである。
動力といえば0.7馬力ぐらいの農耕馬、後になるが農協の事業で搾乳牛を一頭乃至二頭を、仔返しという事で希望農家に導入された。
荒れ地を開墾し排水対策をしながら換金作物として馬鈴薯・大豆・小豆・とうきび・燕麦・ヒエ・他作付けするのだが水田は昭和30年ころか。以後造田ブームが来た、一時期100町歩ぐらいにもなり昭和50年頃80町歩からなる”田代共同育苗組合”ができる。
それまでの手作業による水田作業から共同作業による機械化一貫作業となり農作業が格段に楽になった。
そして現在水田は国の(生産調整)減反政策により当時の30%、25〜6町歩となる。
自分の経営も、水田5ヘクタール程の水田は休耕して苺のみの栽培に切り替えた。
現在、イチゴ・ハウスの建っている様子からは、とても往時の苦労は当時者である自分さえも偲ぶ事は出来ない、でも事実は事実、”ちょうそん”開拓の記憶として思い出しながら順次書き留めて見たい、・・・語れる人も少なくなってきた。

一寸頭を休めて、吾が村・町のミステリースポットを紹介したい。

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